初夏の運動会
太田公士(6月4日)
6月3日の日曜日、長男坊(小学6年生)の学校の運動会が開催された。先週は中学2年生の長女の運動会だったが、この日はあいにくの雨で、平日に延期となってしまい、見に行くことが出来なかった。私が小学生だった頃は、運動会はといえば「秋」と相場が決っていたが、この頃は、新入生が学校に入って間もない、5月や6月に運動会が行われることも常態となっているのである。
さて、長女の運動会とは打って変わって、6月3日はピーカンの日本晴れ。6年生の長男坊は、運動会の準備委員とやらで、朝7時には元気よく飛び出して行った。現在、小学校が建替え工事中で、近隣の小学校校庭を拝借しての開催のため、例年よりも準備に手がかかるのだという。
自慢じゃないが、私は、本当に何もしない親である。これまで、宿題のひとつも見てやったこともない。時間があった時、たまに授業参観に行く程度。それも数えるほどしかない。
運動会では、いつの間にか最上級生となって、下級生たちの世話を甲斐甲斐しくしている姿を目の当たりにした。
「ああ、勝手に大きくなっているんだなあ」という感慨にひたったものだ。長男が出演したのは、「大玉送り」「全体体操」などの全体演技の他、学年独自の「90メートル走」「騎馬戦」「組み体操」、そして選ばれた児童たちの「紅白リレー」だった。騎馬戦では、敵(赤組)の大将の騎馬の帽子を見事にゲット! 「おおーっ、やった」と喝采を送る。組み体操では苦痛に顔を歪めながら、大きなピラミッドの中段で、肩の上の子供を必死に支えている姿を、ほほえましく見詰めたものだ。つくづくと、「いつの間にか、大きくなっているんだなあ」と思う。
「赤勝て、白勝て」の掛け声も、昔と少しも変わらない。児童たちの演技を見詰めながら、私は、何十年か前の、私自身が小学生だった頃の運動会を思い出していた。
何をかくそう、私は運動が大の苦手だった。かけっこでも一番になったことなど一度もない。中でも跳び箱は大嫌いで、4段より上を飛び越せなかった。かといって、運動会だけは心待ちにし、期待に胸ふくらませていたのも事実だった。
何といっても、昼食である。自分の演技を親が見ているという晴れがましさ。そして、丹精込めて作ってくれたお弁当。「惜しかったねえ、でも、よく頑張ったねえ」という一言を聞きながら、家族と一緒に摂る食事。梨や蒸し栗など、特別の“デザート”付きで、秋の一日を満喫したものである。
当時は、運動会のための「足袋」を親に用意してもらったものだ。木綿で出来たペラペラの足袋である。底の部分は少しばかり厚くなっているものの、走ったり歩いたりすると、地面の感触がそのまま伝わってくるような代物だった。夕方、運動会が終る頃にはもうボロボロになって、二度と使えなくなるほど、粗末なものだった。何故、運動会の日は「足袋」だったのか、今でもこの疑問は解決していない。この足袋は、学校の近くの「万屋(よろずや)」さんに、運動会が近づくと軒先に吊るされていた。ハチマキや紅白の帽子も、同じように万屋さんで求めるのが習わしとなっていた。
紅白帽子は今も昔と変わらない。ひっくり返すと白が赤になる、リバーシブルのヤツ。
運動会のために、トレパン(トレーニングパンツ)を新調する子供もいた。閉会式の後に配られる記念品は、学校名の入った鉛筆が2本と決っていた。たった2本の鉛筆なのに、妙に誇らしく、特別のもののように思ったものだ。
運動会というのは、子供心に、何か特別の日だったように思う。それはきっと、時代や環境が変わっても、今の子供たちにとっても、同じなのだろうと思う。
さて、長男坊は、選ばれてリレー選手として「白組」のアンカーを走った。2番目の走者がバトンを落としたため、結果はビリ。でも、少しでも距離を縮めようと必死の形相でトラックを走る姿に、私は不覚の涙を落としてしまった。それはそれは、鬼のような物凄い顔だった。
普段はヘラヘラしている息子が、あんなスゴイ顔つきで、泣き出さんばかりに走っている姿に、「一所懸命」の美しさを見たのだろうか。それとも、普段何もしてやっていない、自分自身への懺悔の涙だったのだろうか。私はといえば、前日(土曜日)も昼間からの会合で延々と呑んで、午前様のご帰還だったのである。
親の感傷などとは無関係に、この子にはこの子の運動会だったに違いない。それでいいんだと、妙に納得して閉会式を迎える。真っ青な空にひるがえる「日の丸」を眺めながら、その美しさがまぶたに焼き付いた。
日本の子供の、日本の運動会。今も昔も少しも変わらない。
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