“我々自身の中”の心の緩み
太田公士(7月19日)

 誰しもが「まさか」と思うようなことが現実に起こる。雪印乳業の牛乳への黄色ぶどう球菌混入事件(事故)は、身近にある恐怖をまざまざと見せつけられた。毎日のように我々の口に入る食品だけに、1万数千人という被害者数の衝撃は計り知れない。現在まで死者が出ていないのは不幸中の幸いだが、経営者の危機管理の問題や大企業の事なかれ主義、そしてその奥にある隠蔽体質などが問われて、社会問題として連日のように新聞紙面やテレビで報道されている。参天製薬の対応などが比較の対象となって、雪印の危機管理がいかに杜撰なものであったかがクローズアップされている。
 一度失った信用というのもは、その図体が大きければ大きいほど回復するのに時間がかかる。今朝の新聞でも「雪印が信用を回復するのには10年はかかるだろう」という識者の見解が掲載されていた。
 一連の報道の中で、雪印の経営陣がテレビカメラの前で整列しておじぎをする姿を見た。あれっ、この景色どこかで見たような…。私にはこの姿が、一連の警察不祥事で各県警幹部が見せたパフォーマンスと同じに見えた。そういえば、東海村の臨界事故の時も同じだった。我々の生命と財産を守ってくれるはずの警察が、組織ぐるみで内部の不祥事をもみ消そうとしたり、一般市民の悲痛な訴えをぞんざいに扱った結果、殺人事件を呼び込んだりと、「まさか、まさか」の連続である。絶対安全と言い張った原発の関連施設では、まさかまさかの臨界事故。「放射能」という、見えない相手だけに地元の人々の恐怖はいかばかりであっただろう。
 それぞれ全く異る環境で起ったものではあるが、どの事件・事故も背後に「慢心」や「油断」が横たわっていて、私には、かなりの共通性を持っていると思えた。
 政治の世界も右に同じで、金属疲労した官僚組織の改革問題も、政治家のモラルの問題も、この国の行く末のビジョンも示されないまま、根本的に解決されることなく「先送り」の状態である。建設大臣に就任した扇千景議員の就任コメントにもガッカリ。中尾栄一元建設相の逮捕直後のコメントが「誰もなり手がないので、しょうがなく引き受けた」とはまさに世も末である。建前だけでも「この際、大ナタをふるって腐敗した組織構造をバッサリやる」とでも言って欲しかった。社会全体に、ある種の“緩み”が蔓延しているのではないだろうか?
 この国の「タガ」がどこか緩んでいるのではないだろうか?
 その発言が、その行動が社会にどれだけの影響を与えるかが全く考慮されていない。
 まるで“評論家”のような物言いになってしまったが、かくいう私も「社会」の一員である。この社会に生きている以上、私の中にも「緩み」が忍び込んでいると考えるのが正確なのだろう。
 大学時代に、私はマックス・ピカートという哲学者の著作を愛読した。愛読の域を越えて、むしろ、むさぼり読んだ。今でも時々、思い出したように読み返す。ピカートの主な著作名を上げると『沈黙の世界』『人間とその顔』『騒音とアトム化の世界』『ゆるぎなき結婚』などがある(いずれも「みすず書房」刊)。
 ピカートは、静謐な思索の時を経て、20世紀初頭から急速に進んだ近代工業化社会がもたらした誤謬と人間性喪失の過程を総括し、アトム化された喧騒の精神風景を、「全一」なるコスモスへと回帰させる方途を思索し尽くした哲学者である。そして同じピカートの著作に、戦時下のナチスドイツを、自らの問題として哲学的に批判した『我々自身のなかのヒットラー』という題名の本がある。
 私は今、次々と起っている様々な事象を俯瞰して、ふとピカートのことを思った。この『我々自身のなかのヒットラー』という書物を想起した。まてよ、マスコミも市民もよってたかって批判し、歪曲された組織構造に集中砲火を浴びせているが、それだけでは根本解決の道は遠いのではないか、と。無論、正邪は判然と識別し、邪は邪として弾劾しなければならない。しかし、それだけでいいのか?という疑問が私には残るのである。
 ピカートの言葉を借りて言えば、実は、我々自身のなかにも緩みや慢心・油断があるのではないだろうか?との疑念がシミのように思考の片隅にこびりつくのだ。
 今、次々と起っている事件や事故の萌芽は、実は私達自身のなかにもある。いや、「私達」ではなく、「私」の中にある。「緩み」が私の中にもひそかに忍び込んでいる。自らを振り返ってみて、本当に全一なる生活をしているかというと「ノー」と答えざるを得ない。自分の会社の危機管理は十分だろうか?
 本当に顧客のための事業経営になっているだろうか?
 社員の皆さんへの福利厚生は十分だろうか? 誠心誠意仕事に励んでいるだろうか? 権利を主張する前に、真の義務を果たせているだろうか? 悪しきことを人のセイにしていないだろうか? 自己責任をしっかり果たしているだろうか? 現状に慢心していないだろうか? 不適切な発言で他人に誤解や迷惑をかけていないだろうか?……。
 人は何もそこまで考えなくても…と言うかも知れない。しかし、日常的に噴出する事件や事故を見ていると、とても人事として、どこか別の世界の出来事として批判するだけでは済まない。
 人種・地域・歴史・文化の違いを超えて、世界の全人類は一人の例外もなく同時代的に、多少ダイオキシンが含有された、この20世紀末の空気を吸って生きている。「いいえ、私は18世紀の空気を吸っている」と言う人は一人もいない。これは厳然とした事実。そして、口から入ってくる物理的な空気とともに、我々はこの時代のムードを“呼吸”しているのだ。
 だから雪印事件も警察不祥事も臨界事故も、情けない政治家の応対も決して他人事ではない。「私の」問題なのである。
 世界の事象を「自分の問題」として、自己の思索と行動の中に受け容れる者のみが、新たなるパラダイムを切り開く鍵を手にすることが出来るのだと私は信じている。これは決して文明批評や哲学上の問題ではない。今日、只今の「生活」の問題である。





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