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太田公士(5月15日)
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5月13〜14日、母が「未生流」の支部生け花展を開催したので帰省して見てきた。地域の方々や支部の皆様のご協力により2日間で1,000名を超える入場者があり、大盛会となった。オープニングで副家元や町長などの来賓、それに多数の支部の皆様や社中の前で挨拶に立った母の言葉が印象に残ったので記しておきたい。
生け花展といってもただ花を並べているだけではない。何せ相手はイキモノであるがゆえに、切り花となった瞬間に「死」が始まる。それを火や水で水揚げをして活物(かつぶつ)とするのが生け花の使命とされるのである。何十杯という生け花を花展の会期に合わせてちょうど「見頃」に整えることの大変さを思い知らされた。
「山吹」を活けた作品があった。山吹という花材は非常に散りやすいのだ。用意したものが展覧会の数日前に満開となり見頃が過ぎたというので母は急遽、見頃に時差のある山奥に分け入って山吹を探した。とある民家の中庭に楚々と咲き始めた山吹を見つけた。そこで持ち主に譲ってもらえるよう交渉したという。
事情を聞いた持ち主は、 「必要なだけいくらでも切ってください。今年も山吹が誇らしげに奇麗に咲いたのに、誰にも見られないで散っていくの
かなあと思っていました。生け花展に出してもらって皆さんにこの山吹を見ていただけるのなら、きっと山吹も喜びます。私もこんなにうれしいことはありません」と語ったという。
母の挨拶は、このエピソードを紹介して今回の生け花展のテーマである『生かされている人 そして花』を説明したものだったが、私は母を通して紹介されたこの村人の言葉にいたく感動した。人知れず山奥の中庭に咲く山吹の花。そしてその花の開花を毎年の楽しみにして慈しみ愛でている名もしれぬ人物の存在。それを生け花という形で芸術に高め上げ、「作品」として展覧しようとしている母。いずれも何か、かけがえなく尊いもののように思えてならなかった。
さて、「作品」とはいえ「生け花」のそれは、永遠に固定された堅牢なものではない。今を盛りと咲き誇る花たちを、流派の伝書に示された黄金律に則って、自然の風光のニュアンスを咀嚼し、自然の息吹を洗練した形に凝縮して一杯の生け花にまとめるのである。花器や組み合せる花とのバランス、色彩、形、動き、独創性などを加味しながら…。ここに芸術の作業があるのだが、この芸術はさほどの時を経ずして、やがてなくなってしまう一過性の芸術なのである。写真に撮って残すという方法はある。しかしそれはあくまで複製であり、「今・此処」に即時的に「在る」オリジナルの痕跡に過ぎない。何とも頼りない感じもするが、却ってそのほうが一瞬の煌めきを、我々により強く印象するのもまた事実である。
茶道の言葉に「一期一会」というのがあるが、生け花もまた同じなのだなと感じ入った。
私が仕事をしているコンピュータのデジタル世界では、複製とオリジナルが全く同じである。唯一無二というものがない。コンピュータでブックカバーやチラシなどのデザインをする。印刷所にそのデータのコピーを渡す。これはハードディスクに入っているデータと全く同じデータの複製である。コピーはすなわちオリジナルである。コンピュータの特性である。
私が母の生け花展で感動した「かけがえのない尊さ」の正体とはいったい何なのだろう? 人間が生きるという行いとはいったい何なのだろう? オリジナリティーとは? 仕事とは? 芸術とは?……。
帰りの新幹線の中で、そんな幾つものテーマが私の脳裏の中でグルグルと渦巻いて、とりとめのない思考がいつまでも続くのであった。 |
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